志村けんでいつまで笑えるだろう

「変」って最近聞かないな、と思う

言わないな、とも思う

 

「変」は「おかしい」とかなり似ている

小学生の頃、街を歩くホームレスのおっちゃんをみんなで嘲っていた 橋の下で寝てたとか いつも嫌な匂いがするとか

自分たちと違うものを排斥してバカにする子供はいつの時代にもいるものだ

 

そんな感性がぼくたちの中にはまだ生きていて、クイズ番組ではおバカタレントの回答を見て笑う

ちぐはぐな受け答えをする漫才を見て笑う

 

 

 

 

志村けんはそんな感性をくすぐる天才だったと思う

 

バカ殿、ひとみばあちゃん、変なおじさん。彼らは子供のぼくらに「変」は面白いという感性をくれた

 

でももうそんな時代ではなくなってしまった

オカマを揶揄して笑いを取る司会者はいない

おバカタレントばかりを集めたクイズ番組も少なくなった

ブサイク芸人もそれだけでは生き残れない

 

もう「変」を笑いにしてはいけないのだ

人にはそれぞれ事情があって今の状態になっているんだから、それを貶めてはいけない…

 

じゃあお笑いはなくなるのか?

ボケてツッコむスタイルはもうウケないのか

 

なくならない

なぜならぼくらの心の底には「変」を面白がる感性があるから

 

この先、「変」は廃れていくだろう

全員が全員を認めていくだろう

それはとても素敵な社会だ

そして「変」は透明になって、志村けんで笑っていた子供たちは大人になる

嫌なことは嫌と言える人は持て囃され、偏見はなくなっていく

いいじゃないか

 

でもぼくの心の中の子供はそれを寂しがっているのだ

 

 

 

志村けんは死んでしまった

ぼくの子供は変なおじさんを見て笑うだろうか